Biography - Jeremy Steig Official Site ジェレミー スタイグオフィシャルサイト

Biography

1942年、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに生まれる。母ライザ・ミードは、美術教師で、油絵画家。父ウィリアム・スタイグは『シュレック』原作者の漫画家。

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2歳の時、両親が離婚。その後、母と姉とウェスト・ヴィレッジのチャールズ通りに住んだ。
近所に住んでいた叔母で文化人類学者のマーガレット・ミードや、趣味で油絵を描いていた祖父ジョセフ・スタイグ、精神分析家ウィルヘルム・ライヒに傾倒する父ウィリアムに影響を受けた幼少期を送る。

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リコーダーからフルートへ

6歳でリコーダーを吹き始め、音楽のレッスンを始める。
11歳のとき、ニューヨーク・フィルのペイジ・ブルックにフルートを習い始める。この頃、母のすすめでインディアン・ヒルの音楽キャンプに参加。初めて聴いたジャズの生演奏は、上級生バンド(チャック・イスラエル、ペリー・ロビンソン、ジョン・メイヤー、アーニー・ワイズ)によるものだった。

リコーダーからフルートへ

ハイスクールとギグ活動

ハイスクール・オブ・ミュージック&アート(現LaGuardia High School of Music and Art & Performing Arts)に入学。
ジャズの授業はなかったが、クラスメートのラリー・ウィリスや下級生のエディ・ゴメスなどと出会う。母に頼んで連れて行ってもらった伝説のクラブ、ファイヴ・スポットで、セロニアス・モンクとジョン・コルトレーンの演奏を聴き、一生ジャズをやる決意をする。

16歳でギグ活動開始。近所に住んでいたボビー・ジャスパーは、よき先輩であり友達でもあった。
1962年、アマチュア・バンドで訪れたバミューダでモーターバイクの事故に遭い、顔左半面が麻痺。左聴覚も失うが、自作のマウスピースを使ってフルートを吹き続け、音楽プロデューサー、ジョン・ハモンドから録音のオファを受ける。

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デビューアルバムと1960年代

初のリーダーアルバム、『フルート・フィーバー』(1964年コロンビア)リリース後、短期間ポール・ウィンターのバンドで活動。この頃のジェレミーは、反ベトナム戦争のライヴに積極的に参加。WBAIラジオの人気DJボブ・ファスの番組「ラジオ・アンネーマブル」に頻繁に出演。

デビューアルバムと1960年代

ジュニア・ウェルズとのギグのとき、ジミ・ヘンドリクスが飛び入りで参加。その後、マクドゥーガル通りのガスライトなどでジミとジャムセッションを行う。
1967年、ジャズロックのパイオニア的バンド、ジェレミー&ザ・セイターズ(Jeremy & The Satyrs)を結成。SFのフィルモアで演奏。この頃、ヴィレッジ・ゲートで定期的に演奏していたビル・エヴァンズ・トリオと深夜のセットで吹いていたが、1969年、『ホワッツ・ニュー』(ヴァ―ヴ)でビルとの録音が実現。

デビューアルバムと1960年代

ジャズロック(フュージョン)

1970年代、『エナジー』(キャピトル)など数々のアルバムをリリース。1972年、ミュンヘン五輪のイベントで、アート・ブレイキーのバンドに参加。その後も、ヨーロッパで、エディ・ゴメス、ジョー・チェンバーズとのデュオ・ツアー、ヨーロッパのミュージシャンとのジャズ祭出演を続けた。

ジャズロック(フュージョン)

二度目の事故、ジャズの低迷

40歳を目前に、自宅近くで自転車に乗っていたところ、信号無視のタクシーにはねられ、首を骨折。回復に半年を要し、表舞台から姿を消す。ロックやポップの時代の到来と共に、ジャズが下火になる。
ウェスト・ヴィレッジのアパートでオリジナルのフルート音楽の多重録音。
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1990年代後半、エディ・ゴメスのトリオの日本ツアーに同行し、98年、盛岡で万年筆を買った際、通訳で呼ばれたアサコと出会う。

ニューヨークから横浜へ

2001年、アメリカ同時多発テロ。電話が3か月不通になる。外は灰が降っていた。窓を閉め切り、「ピープル・ダスト」を作曲。(後にカルテットのアルバムで録音)
2003年、アサコとニューヨークで結婚。
2004年、約20年ぶりに自らのバンドで活動開始。ウェスト・ヴィレッジのコーネリア・ストリート・カフェで毎月演奏。横浜ジャズ・プロムナードにヴィック・ジュリスとデュオ出演。
2007年、1990年代から続けていた多重録音の集大成として、ソロCD『Pterodactyl(翼竜)』をリリース。

2010年、アサコと共に横浜に移住。自作ストーリーにオリジナルのサウンドトラックを付けた動画の製作を開始。自ら描いたキャラクターを切り絵にして配置したミニチュアのシーンを撮影し、約10分の短編ビデオを製作。(合計9作)

2011年、東日本大震災。アサコの両親の出身地、広島の原爆資料館を訪れ、これをきっかけに『ジュリアンはどこ?』を製作。

2014年から東京で定期的にライヴ出演。2015年の年末ライヴが最後のパフォーマンスとなった。
2016年4月13日、がんのため横浜で死去。73歳。

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